2013年5月1日水曜日

ブログ書評第2回『モモ』

みなさん、はじめまして。
ビブリオバトル信州の代表のスズキです。

評論から小説、過去のバトルで紹介した本から、5分ではとても紹介しきれない本まで、
私も幅広く紹介していきます。


さて、書評2回目の今回に紹介するのは、
ミヒャエル・エンデ『モモ』(岩波書店)です。




日々時間に縛られているようで、気づけば時間を持て余している今日この頃、
(この記事を書いている今は大型連休の中頃ですので、時間を持て余す危険性大!)
中身に触れつつ、私も「時間」について考えてみます。

…と思いましたが、これがなかなか難しい。そこで、まずは「時間を考えるのが何故難しいのか」、
その辺りを探ろうと思います。


各自で難しさを感じる理由はもちろん違うでしょうが、一つには、その起源を探ろうとした時に
「上手くその起源を言えない」ことに由来するところがあるのではないでしょうか。
音楽や舞踏、各種の儀礼がいつ始まったか正確には述べられないように、「時間」も
その歴史の全貌を明らかにはできないようになっていて、そこに難しさがあるのではないかとおもいます。
たしかに、「日時計」や「砂時計」など紀元前からある(とされている)時計の歴史から
時間の歴史を決めようとするのもアリ、な気はしますが、正確にその起点を言えない以上、
「歴史」として、どこか歯切れが良くありません。

また、「なぜ日時計などは発明されたのか」など「古代人の動機」を探ろうとしても、(プロである
考古学者にはわかるとしても、)一介の民間人である私には到底たどり着けそうにありません。

なので時間は、「起源はわからないが、はるか昔から人に知りたがられていた
取り扱いの難しいもの」 として見る必要があるのではないでしょうか。




さて、もう一つの考察したい問いは、「時間は誰のもので、どう使うべきか」ということです。
「時間どろぼう」に時間を盗まれた人々は、「自分の時間」がもったいないと、ケチな人生を送る。
時を司る「マイスター・ホラ」に導かれ「モモ」は自らのココロにある「時間の花」を見る。

何だか、人は自分の時間を最初から持っているようですが、少し違う気がします。
自分の時間をもったいないとするばかりに、争いが起こる…回避するにはどう考えるべきか。


先達の智慧と同じく、時間も「他者から贈られたもの」として捉える方が良いのではないでしょうか。
また、それを「他者のために使う」という発想も必要かと思います。

時刻にせよ季節にせよ、自分で発明した時間を持っているという人は現代においてはまずいないでしょう。
「体内時計」のように自分自身で決めた時間を自ら自由に行使するのは問題ないでしょうが、
他者が作った時間をあたかも自分が作ったもののように見せ振る舞うのは、やはり傲慢と言えるでしょう。
その傲慢さを振り払うこと、そして、他者のために自分が譲り受けた時間を使うこと。
そこにカギがあるのではないでしょうか。

「時間どろぼう」に対抗し、有意義な時間を過ごしていると見られる者たちの共通点
(他人の話を聞く、他人を助ける、時間を配る…)
としても、傲慢さを捨て自分の時間を贈与する姿が挙げられます。



…何だか私的考察に終始してしまい恐縮ですが、最後に一言。
「時間って、考えるのは難しいけど、自分の時間はとにかく他人のために使いなさい」
この本はそんなメッセージを投げかけて、ココロをあたため、人生を軌道修正してくれるはずです。
「えっ、児童文学!?」という方も、映画は見たが本はまだ…という方も、この機会に是非読まれては
いかがでしょうか。
私も、おもしろい時間論がありましたら紹介したいと思います。




ビブリオバトル信州・代表 スズキ


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