2013年9月16日月曜日

ブログ書評 第16回 『「待つ」ということ』

 ごきげんいかがですか、スズキです。

 私の3回目となる今回は、『「待つ」ということ』(鷲田清一、角川選書、2006年)を紹介いたします。




 この本を通して考えさせられるのは、「待たなくてよい社会、待つことができない社会の到来によって、私(たち)は何を得、何を失った(あるいは失い行く)のか」ということです。

 たしかに得たものもあると思います。たとえば、携帯電話を使った待ち合わせでは、携帯電話のおかげで両者は待つ(待たせる)時間を正確に把握できるようになり、待たせる方は相手に心配をかけなくて済む安心が生まれ、待つ方も約束までの空白の時間を効率よく使えるようになりました。別の例をあげれば、子の出産でもそう。待たずとも、性が判り、顔がほのかにわかり、遺伝子までわかるようになりました。可処分的時間の増加、安心、そして近未来を得られるようになったことには、一定の意義があるでしょう。

 しかし、ある大切なものも失いつつあるのではないか。待つことで生じる「豊かな感情・自分だけの繊細な感情」を失いかけているのではないでしょうか。
期待や不安も、焦れや絶望も、「待つ」ことがなければそれらを抱くこともない。そうして平板になった生活に人間らしさや面白さを見出すことは出来るのだろうか。感情の乏しい、つまらない生活を送っていて我々は平気でいられるのでしょうか。
 「負の感情を見出すとツラいから、そういうのが出やすい『待つ』ということはしたくない。すぐに物事が進んでほしい。」という意見もあるかと思います。たしかに、「待つ」時は期待感などプラスの感情だけでなく、不安やイラつきなど負の感情も起こります(最近では、いつまでも青に変わらず進めない信号にイラつく自分がいたり、ドライブスルーにて先に3台車があるのを見ただけでイラつく知人がいたり…)し、後者の方が長きにわたり残りやすく、毎日が重く苦しいものになるのも確かです。
 でも、マイナスな感情があってはじめてプラスも光るのではないでしょうか。プラスを光らせるためには、少なからず、マイナスなものにも目を向ける必要が出てくるのではないでしょうか。その契機として、「待つ」ということに意味が出てくるのではないでしょうか。


 本書は、待つときに生じる感情の姿に徹底して向き合った記録です。書物から、認知症治療や精神医学など相手の言葉をひたすら「待つ」医療の現場から、「待つこと」とは一体どういう状態なのか、そのとき人は何を思い、何を感じるのかについて思考を広げた本であります。スパッと「こうしよう」実践的な事柄が羅列してあるものではありませんが、「待つ」ことに対し何か気になることがあった方にはもちろん、きめ細かい感情や人間らしさを追求する方にも特に推薦したいと思います。

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